「ちょっとだけスマートに生きる」という希望(あるいはテン年代のコミュニティ解放論)


1年ほど前に書きかけのまま,ほったらかしていた記事ですが,お蔵入りにするのもなんだか勿体無いように思えたので,そののまま公開することにしました.この記事で引用しているWebサイトは書籍化にあたってクローズされましたが,書籍じたいにアクセスすれば,件の記事についても掲載されていると思います.

【2019年8月30日追記】ここで引用している記事へのリンクですが、Internet Archive にアーカイブされているものへのリンクに修正しました。このことの是非については論じませんが、まあ一部の引用ということで…


村上春樹氏が読者からの質問に答える,という趣旨のWebサイト「村上さんのところ」にて読んだ記事(「言葉の怖さについて」2015年4月7日付)の感想です.

結論から言えば「村上流ネット・リテラシーのススメ」といったところでしょうか.我ながらヒドイまとめ方だとは思いますが.

SNSが発達したせいで、抜き身の刃物のような言葉が言説空間をひゅんひゅん飛び交っています。

これは秀逸な表現の仕方だと思います.わたしの興味関心で言えば,メディア社会学で指摘されているような「<つながり>の社会性/ネタ的コミュニケーション」による即時的なネットコミュニケーションのあり方に対する村上氏の困惑(もしかすると嫌悪感に近いのかもしれない)を率直に言い表したものなのでしょう.

村上氏のこの困惑は次のような言葉となって読者の目に飛び込んできます.

インターネットは便利なツールですが、僕らはなんだかとんでもないものを解き放ってしまったような気がすることもあります。

氏の考えには少なからず首肯しないではないのですが,インターネットが日本に普及し始めた時期からもう20年以上も(そう20年以上も!)ネットの利用者で在り続けているワタシとしては「それを言っちゃあオシメエヨ」と思ってしまうのもまた偽らざる感情であるのです.

もちろん氏はネットの存在,利用そのものを否定していません.あたりまえですが,デジタルネイティブの例えを出さずともわたしちの社会生活に欠かさざる道具としてネットとはつきあっていかなければならないわけですから.

それではどうするか.この問に対し,村上氏はこれも秀逸な表現で回答を出しています.

そういうツールとのあいだに、自分なりの「適正距離」を測って置くことが大事になります。

この歌はそのまま秀逸なネット社会論として十分に通用する、そう思うのはワタシだけでしょうか。

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