学部チャペルで話をしました


6月3日(金)に,母校である関西学院大学の理工学部チャペルにて,話をさせていただく機会がありました.昨年に引き続き,今年も機会を与えてくださった,理工学部宗教主事の前川裕先生に感謝致します.
当方としては,聖書にかこつけてメディアリテラシーについて,学生たちにとり,あたりまえのメディアとなった「ソーシャルメディア」について話をした(つもり)でした.当日準備した原稿をそのまま掲載します.


「聞く耳のある者」のたとえ

みなさん,こんにちは.理工学部の非常勤講師を努めております,内田啓太郎と申します.
1年生の方には,この後の授業「サイバー社会入門」で毎週お目にかかっておりますので馴染みの顔かもしれませんが,少し自己紹介をさせてください.
わたしは関学社会学部を1997年春に卒業後,続けて大学院社会学研究科へ進学し,99年3月に修士課程を修了しました.99年4月より,北海道函館市の大学に就職し,それ以来17年ほど大学教師という仕事を続けております.また2011年4月から2015年3月まで関学の上ヶ原キャンパスにある高等教育推進センターにおいて大学教育について研究,実践する立場でありました.
きょうは三田,そして上ヶ原キャンパスで働いていた経験をもとに,大学で学ぶことについてお話させていただきます.
大学で学ぶこと,その意義のひとつに自分の身の回りにあふれている知識や情報を,どうやって手に入れ,手に入れたあとでどのようにして自らのものとして理解していくのか,そのことについて学び合うところにあります.そのための手段として,皆さんの身の回りにあるスマートフォンやパソコン,大学図書館や街の本屋など,いくつかの手段があるわけですね.つまりそこだけを取り出して考えると,皆さんが大学生として生活している現在は,知識や情報を手に入れることにとって,とても豊かな環境の中に居ることがわかります.
一方,私自身は授業を通じ,多くの学生さんと交流していくなかで,このような状況であるにもかかわらず,皆さんがこの環境を上手く行かせていないのではないか,そう感じております.なぜわたしはそう感じているのか.ここで今日紹介されました聖書の一節(筆者注:マルコによる福音書4章23節から25節まで)を思い出してください.
まず「聞く耳のある者は聞きなさい」とあります.これは先ほど言いましたように,皆さんはすでにネットメディアなどの手段を持っているわけです.そして聖書では,続いて「何を聞いているかに注意しなさい」とあります.このフレーズに少し注目したいと思います.皆さんは,普段,「何を」聞いているのでしょうか.もしかすると自分自身にとって聞きたいこと,自分にとって都合の良いこと「だけ」を聞いてはいないでしょうか.確かに自分自身にとって聞きたくないことを「聞かない」ならば日常を心地よく過ごすことができるかもしれませんし,皆さんにとって日常不可欠な「聞く」手段である,ネットの「ソーシャルメディア」は自分にとって「聞きたい」情報だけを,とても効率的に,毎日運んできてくれます.
皆さんは,このことについて一見,何ら問題がないように考えるかもしれません.実際,多くの人がソーシャルメディアからの大量に流れてくる情報を「聞く」ことで満足していると思われます.しかし,メディア研究者であり,大学教師の立場としては,これはあまり良い状態だとは言えません.メディア研究での専門用語に「フィルター・バブル」というものがあります.簡単に説明しますと,ソーシャルメディアによって送られ,消費している大量の情報が「バブル」として私たちの周りを取り囲んでしまい,本当に必要だった情報が届かない,つまりフィルターにかけられ,届かなくなってしまう状態のことを指し示しています.
きょうの冒頭に話しましたように,大学生活においては,ソーシャルメディアを含め,さまざまな知識や情報に出会う機会が,本来はあるはずなのです.環境だけでいえばそういった中に居るはずなのです.この「出会う」ことが,自分自身の成長にはとても大切であります.出会うためには自らが進んでそうする必要があり,それは今日紹介した聖書の一節にある「聞く耳のある者は聞きなさい」ということに通ずると思います.そういった意味では,日常生活の多くの時間を割いて利用しているソーシャルメディアは,自分が意図しないけれど,必要としている情報に出会っていくことを,先ほど述べました「フィルター・バブル」により,とても難しくさせてしまうのです.
・私の考えに「でも,今の私は困っていませんよ」と疑問をもったり,反論したい方もいらっしゃるでしょう.日々,ソーシャルメディアが届けてくれる情報を「聞く」生活も,文字通り耳障りの良い,心地よいものに思えるかもしれないからです.さまざまな情報と出会うことは,時として自分にとって不快な経験をすることもありえるからです.それでは,私があえて,多様性をもった情報に自ら進んで出会うことを勧めたいのか.そのことについて話をしていきましょう.
今日紹介した聖書の続く一節には「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ,更にたくさん与えられる」とあります.この「秤」について,どのような「秤」を持つのか,実は,そこに今日話したいことの,一番のポイントがあります.これもメディア研究での専門用語ですが,「メディア・リテラシー」という言葉があります.メディアを使って得た情報をどう解釈していくのか,さらに自分にとって必要な情報と,どう出会えば良いのか.そういった能力のことを指し示しています.
私たちは「秤」であるメディア・リテラシーの能力を身につけていれば,さまざまな情報と出会うことができます.そして同じ聖書の一節(「更にたくさん与えられる」)にあるように,さらに多くの情報と出会うことで,自分自身の知識や思考に多様性を持たせる能力でもある,メディア・リテラシーの能力を育てていくことができるのです.
一方で「秤」を持たない場合,つまりメディア・リテラシーの能力が不十分な場合,これも今日紹介した聖書の一節にあるように「持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」のです.ここで「持っているもの」とは,さまざまな情報に,自ら進んで出会っていく機会だと考えましょう.このような機会が奪われてしまうことは,大学生活を通じて,多様性をもった情報に出会い,そして自分自身の成長を図ろうとする皆さんにとって,不本意だと思われるでしょう.それではどうすれば良いのでしょうか.
解決策として考えられることは,さほど難しいことではありません.それは,私たちの日常生活の中で,ソーシャルメディアはある意味,偏った情報,つまり自分自身が「聞きたい」「出会いたい」情報だけを届けてくれる道具であることを自覚すれば良いのです.私は,ソーシャルメディアを使うのをやめよう,と主張したいのではありません.どのような道具なのかを自覚しよう,その自覚さえ持っていれば,たとえば「フィルター・バブル」に翻弄されることなく,逆に多様性をもった情報に出会える道具,そして場所として,ソーシャルメディアを活用できると考えるのです.もちろん,ソーシャルメディアやネット以外の場所に,自ら出かけていき,情報との思わぬ出会いを求めることも勧めたいところです.
最後になりますが,「何」を聞いているのかに注意しながら,自らが持つ「聞く耳」によって,つまりソーシャルメディアという道具を活用して,たくさんのものを,自らの「秤」に与えられようではありませんか.そしてその「秤」そのものを,より素晴らしいものへと育てていって欲しいと思います.
以上で私の話を終わります.ご静聴ありがとうございました.


来年も話をさせてもらえるといいなあ.できれば母学部で(私の出身は違う学部です).