母校のチャペルで奨励を行いました


去る7月3日,私の母校である関西学院大学にて,理工学部チャペルアワーの奨励者として話をする機会がありました(お声がけくださった宗教主事のM先生,ありがとうございました).その時の原稿を掲載します.こういう機会は初めてで,普段の授業では考えながら話すタイプの私としてはとても緊張してしまったのですが,なんとかやり通せたのかなと思っています.当日チャペルに出席された学生諸君のみならず,どなたでも興味を持たれた方の参考になれば幸いです.

神より賜った能力をどう生かせるか

2015年7月3日
内田啓太郎

みなさん,こんにちは.理工学部の非常勤講師を努めております,内田啓太郎と申します.

1年生の方には,この後の授業「サイバー社会入門」で毎週お目にかかっておりますので馴染みの顔かもしれませんが,少し自己紹介をさせてください.

わたしは関学社会学部を1997年春に卒業後,続けて大学院社会学研究科へ進学し,99年3月に修士課程を修了しました.99年4月より,北海道函館市の大学に就職し,それ以来16年ほど大学教師という仕事を続けております.また2011年4月から2015年3月まで関学の上ヶ原キャンパスにある高等教育推進センターにおいて大学教育について研究,実践する立場でありました.

きょうは上ヶ原キャンパスで働いていた経験をもとに,大学で学ぶことについてお話させていただきます.
ところできょう紹介した聖書の一文を読み,みなさんはどう感じられたでしょうか.「イエスの名のもとに奉仕」だなんて宗教活動をすすめているのか,教会へ熱心に通おうとでも言いたいのか,そう思われたかもしれませんね.実際,私は洗礼を受けたキリスト者として,みなさんにはチャペルアワー以外にも聖書や説教に触れる場を持ってくれればと思う気持ちは強くありますが,きょうはお話しすることは,こういったこととは少しずれています.

結論から言えば,キリスト教主義教育を行う大学である関西学院のスクールモットーである「Mastery for Service」について,少し聖書にかこつけながら関学で学ぶことの意味を,常に自分に問いかけながら学んでいって欲しい,その問いかけにこそ,きょう紹介した聖書の一文にある「その賜物を生かして互いに仕えなさい」という箇所のもつ大切さが現れてくるのだと,私は考えているのです.

さて,ここからは私自身の話に戻ります.先ほど申しましたように,私自身は関学にて社会学を学び,そして大学生へ社会学を教える仕事に就いたわけですが,正直なところ,社会学を学ぶ意味,つまり先人たちが積み重ねてきた知識や社会学的なものの考え方といったスキルを学び,身に付けることそのものに対してはあまり疑問を持たず単に必要だからとか,大学だからやはり研究が大事だ,といった程度の意味付けで済ませてしまっておりました.

そういった職業人生を数年も続けた後,今の妻となる女性との出会いがありました.彼女は関学ではありませんが神学部の出身でありましたから,結婚後しばらくして地元の教会に二人で通うようになりました.その当時,すぐに洗礼を受けようといった気持ちは湧いてきませんでしたが,教会での奉仕活動として,教会のホームページの作成や,礼拝のネット中継といった試みを,半分は趣味を兼ねてやっていくうちに,ふと思い出したのが関学のスクールモットーである「Mastery for Service」だったのです.

「Mastery for Service」はよく「奉仕のための修練」と訳され,紹介されることがあります.函館の教会でITという面から奉仕活動に携わる一方で,活動するからには責任も生じますので,いろいろと新しい知識やスキルを自分で調べ,身につけていきました.これは「修練」という言葉を学習と言い換えれば,少し強引かもしれませんが,「奉仕」のために修練していた,とかんがえることができます.その後,2010年に私自身洗礼を受けることを決意し,キリスト者となったわけですが,どうやらその頃からこの「Mastery for Service」についてことあるごとに考えるようになったのでした.この思いは2011年に関学へ赴任してから一層のこと強くなってきました.

もともと社会学を教えることが大学教師としての私の本分だと考えていたのですが,上ヶ原キャンパスではレポートの書き方やプレゼンのやり方を教える一方で大学教育そのものについて研究する立場にもなりました.関学へ赴任直後は,えらく状況が変わったものだなと正直戸惑うことの多い日々を過ごしておりましたが,ここでまた「Mastery for Service」を思い出したのです.

キリスト教主義の教育の場といえども大学は教会ではありません.ではそういった場所において「奉仕」するとはいったい何なのだろうか.逆説的な話かもしれませんが,今自分が仕事として新しい分野の教育に携わっており,そのための「修練」は否応なしに積み重ねていかねばならない,でもそのことに意義を見出したい,その意義を見いだせればきっと「修練」も楽しくやっていけるに違いない,そう考えるようになったのでした.したがって誰に対して,何を奉仕するのか,そのことについて考えこむ毎日でしたが,ある日答えが浮かびました.私は学生たちに学ぶことの楽しさ,そして学ぶことを通じて人とつながり,共同体をつくりあげることもできる,そういったことを伝えるために奉仕するのだ,と.

どのような学問でもひとりで学ぶだけでは,知識やスキルを身につけた,と感じることがあってもそれ以上のものは得られない,そう私は考えます.つまり,知識やスキルというものは他者に対して,他者の役に立ってはじめて,それらを学び,身につけたことの意味をはっきりと実感できるのではないでしょうか.私の場合は,大学での学び方や学んだことをアウトプットするやり方を教えていたわけですが,私が担当していた授業を履修していた学生から,授業で学び,身につけた知識やスキルを他の授業や課外活動でどのように生かせられたのか,話を聴くのがとても楽しく,その瞬間,自分が関学という場所で他者へ奉仕できているのだと実感できたのです.またそのことが奉仕のための修練という形で私自身の学びへの動機にもなっていたのです.

そろそろまとめに入りましょう.今日紹介しました聖書の一節に「賜物」という言葉が繰り返し出てきます.私自身はこの賜物は二種類の意味に取れると考えております.Mastery,つまり修練の意味と,Service,つまり奉仕の意味とです.具体的に私の考える解釈を申しますと,皆さんは関学,そして理工学部という場所で,日々新しい知識やスキルを学んでいることでしょう.これを修練と捉えれば,修練とは直接的には学び,身につけた知識やスキルのことを指し示すのですが,それに加え,その修練の場所,そしてともに修練していく仲間を,神が与えてくださったのだと考えます.一方で,修練により学び,身につけた知識やスキルを他者のために役立てること,つまり奉仕することも,その場所や奉仕の相手,さらにともに奉仕に励む仲間も,神が与えてくださったのだと考えます.

このように申しますと,大学で学ぶことが何だかとても敷居の高いことのように思われるかもしれません.奉仕のための修練として学習するのか,ならばその目標はとてつもなく高いところにあるのじゃないか,というふうに.しかし私はそうは考えておりません.今日紹介した聖書の一節にはこうも書かれています.「奉仕をする人は,神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」.つまり自分がどのような方向で,どの程度,奉仕に携わることができるのか,そのこと自体も神が与えてくださるのだと考えています.

そうすると皆さんは,学ぶこととは,あまり主体的なことではないだろうか,そう考えるかもしれません.でも神が与えてくださるのは知識やスキルそのものではありません.どういった知識やスキルを学び,それをどうやってお互いに役立て合うのか,その大まかな方向性を示してくださるのです.したがってその方向性に沿ってどの程度進んでいくことができるのか,それはまさに私たち自身の修練にかかっております.

皆さんはこれから長い間,大学を出てからも学び続けていくことでしょう.時には自らが学ぶことの意味を見失いそうになるやもしれません.そのような迷いの時にこそ,関学のスクールモットーである「Mastery for Service」を思い出してください.関西学院の名のもとに学びあうわたしたちとってこのモットーにこそが「神よりの賜物」なのだと言えるかもしれません.

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